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原六郎生家 (朝来市佐中)
          
 朝来市佐中の集落でひときわ大きい茅葺の家が、生野義挙では武器周旋方で働いた進藤俊三郎こと、後の原六郎の生家である。
 進藤家は進藤権之進(1135年)が開祖とされており、現在27代目当主で870年間家系が継承されており、平成2年から千年家と呼ばれるようになった。この原六郎生家は1464年ごろの建築といわれ、門は築500年以上は経つといわれています。

原六郎は天保13年(1842年)11月9日進藤丈右衛門の六男として生まれました。安政2年(1855年)池田草庵の青渓書院に入門し、北垣晋太郎(国道)、西村哲二郎と知り合い、文久2年(1862年)に北垣らと農兵組立ての計画を立てる。翌年の生野義挙の時は西村や同郷の田中軍太郎と共に武器周旋に努めた。
 武器調達のため京の旅籠花屋に潜伏しているときに池内蔵太に会い、天誅組大和破陣を聞かされ、生野挙兵中止論を説いた。
 しかし、挙兵は決行され、京で武器を調達していたが搬送の途中で生野破陣を知り、そのまま因州へ逃れた。
 また、一度郷里に戻ったが、諸藩の探索が厳しく、因州に逃れてきた同郷の北垣らと共に京へ逃れている。
 そのときの話であろうか、生家の向かいに深高寺があり、彼が義挙の時生家に戻ったが、追手に遭い深高寺の二畳ほどの須弥段の中に隠れて難を逃れたという話が残っている。
 また、文久3年(1863年)12月28日に進藤は北垣、西村とともに江戸へ逃れて、北辰一刀流千葉重太郎の桶町道場で翌年の4月か5月ころまで匿われ、その後長州藩邸に移っている。6月か7月頃には坂本龍馬と知り合い、龍馬から蝦夷地開拓の話を聞かされている。

 その後、進藤は長州藩の遊撃隊に加入し、大村益次郎から兵学を学ぶ。この頃から原六郎と名乗るようになる。 
 慶応4年2月には因州の河田左久馬に従って、東山道軍に参加、のちに山国隊指令士となって、生野で果たせなかった農兵隊の指揮をとった。維新後は因幡藩第一大隊長となり、欧米視察を命じられ渡米したが、任を辞して働きながらエール大学で経済学を学び、その後イギリスに渡りキングスカレッジで銀行論を学ぶ。帰国後は実業界に転じて、第百国立銀行、山陽鉄道、帝国ホテルの設立に関与する。
 また、郷里では山口小学校の講堂兼体育館を寄贈し、若き日に学んだ青渓書院の保存のために北垣国道と共に基金を設立し、生野義挙において南八郎ら13名が自刃した山口村に招魂社建立に際して寄金を寄せるとともに祭典に列席するなど、郷土に対する感謝の念を忘れなかった。
 昭和8年(1933年)11月14日、原六郎逝去。81歳。墓は東京府中市多磨霊園。

進藤丈右紀功碑(原六郎顕彰碑) (朝来市立山口小学校内)
 朝来市の山口小学校の校庭に進藤俊三郎こと、原六郎と父丈右衛門の顕彰碑が建てられている。明治36年(1903年)に建立された碑で、旧山口小学校の講堂は今は取り壊せれてしまったが、原六郎と父丈右衛門により寄贈されたものであった。

 碑文は進藤丈右衛門父子の経歴と講堂の献金壱千圓の基金に対し、「村民の義トシ欲建碑」と顕彰碑建立のいきさつを記されている。

木南弥一兵衛宅(生野町新町)
 弥一兵衛の家業は代々井筒屋というお銀(かね)飛脚を営んでいました。お銀飛脚とは銀山内で精錬した銀を大坂に運ぶ仕事であり、生野から大坂へは年に何度も行き来しておりました。

 美玉三平は生野代官所占拠のあと、大坂にいる薩摩藩の同志あてに躍起の勧誘状を10月13日にお銀飛脚の弥一兵衛に託していましたが、大坂に着いたときにはすでに生野は破陣したと聞き、弥一兵衛は大坂町代官に自首し、御用達大阪屋定次郎方にお預けとなり、翌年2月京都町奉行所に引渡され、11月まで六角獄に入れられた。その後町預かりとなり3年の月日を過ごしたが、慶応4年(1868年)1月に西園寺公望が山陽道鎮撫総督として生野に来た折に、謹慎を解かれてた上、苗字帯刀を許された。

 その後の余生は多可郡の的場村(多可郡多可町加美区的場)に住み、寺小屋などを開き、明治17年(1884年)4月25日、65歳の生涯を閉じた。墓は加美区的場の金蔵寺。

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